キノコ

2004年11月第2週

山々が色づきました。山道にも木の葉が舞い落ちて、草木染めのカーペットさながら、すべりやすい足元を彩ります。

そんな木の葉の吹きだまりから、色とりどりのキノコが顔をのぞかせていました。この秋は雨が多かったので、キノコも例年より多いみたい。道のいたるところでみられる白いキノコ。これは見かけはおいしそうだけど、食べられません。食べられるのは、腐食した倒木の根元に生えるクリタケ。栗の実によく似て、茶色いころんとした形をしています。それから一見毒々しげな、傘の上に緑錆をふいたようなのがアミタケで、これは切り口も生肉みたいでギョッとしますが、味はなかなかいいのです。

中でも目をひくのが、うす紫色の傘をもつムラサキシメジ。あんまりきれいなので食べられないと思っていたら、これは食用なんだそうな。それを聞いて、篭にいっぱい採ったのですが、湯がいてみると泥臭く、あまりおいしそうではなかったので捨ててしまいました。もしかしたら似て非なるものかもしれませんしね。下痢・嘔吐がこわくて、試食もできなかったしだいです。

やっぱりキノコ採りは、何度か師匠について歩かないとダメなようです。杉林に入ると、話題のスギヒラタケらしきものも生えていて、どんなものか食べてみたい気もするのですが、今のところ断念しています。

おいしいキノコには、かならずといっていいぐらい、色も形もよく似た毒キノコがあるといいます。ホウキタケにそっくりのネズミタケなどがそう。

雑草にもそういう傾向があります。たとえばシソを植えると、名前はわかりませんが、シソそっくりの葉をもつ草が生えてくるし、モロヘイア畑にはやはり同じようなものがいつの間にか生えている。花を観賞する植物の場合も同様。

いつも思うのですが、不思議な現象です。まるで人を惑わすのを楽しんでいるかのような・・・。

自然界はそんなイタズラをするかと思えば、用意周到なところもあって、人畜に有害なものの近くには、かならずその毒を中和するものを配置していたりするものです。からかいもするけれど、冗談がきつすぎたかなと思うと、ちゃんとそれを癒してくれる。だからまちがって毒キノコを食べたところで、そのあたりに生えている草でも煎じて飲めば、案外大丈夫だったりして・・・。

しかし、毒キノコなどというものは存在しない、といいきる人もいるのです。ご飯に混ぜるとあたってしまうキノコでも、味噌汁にすると大丈夫だったり、干したり、塩漬けにしたり、食べかたしだいというんですね。いわれてみると、なるほどそうかという気がします。

そもそも、毒とはどういうものなのか。ごく微量を摂取すれば薬になるけど、ふつうに食べてはいけないものが、一般に毒と呼ばれているものでしょう?毒と薬は紙一重。質ではなく、量の問題だったんです。身体にいいといわれているものだって、食べすぎると毒になるのですから、同じこと。だったら毒なんて、差別用語以外のなにものでもないんじゃないか。

人間の身勝手が作り出した言葉はまだまだあります。害獣に害鳥、雑草などなど。不良などというのも、その部類に入りそうです。小規模な暴力はテロだけど、それが大規模になると、なぜか平和維持になったりね。ふしぎ、ふしぎ。自然界も顔負けの摩訶不思議。

自然界にあるものは、人の手に触れることがなかったら、ほんとうに毒などないのかもしれません。地中深く眠っているウランが人の手に触れたとたん、恐ろしい物質になってしまうように、毒キノコも毒草も、じつはわたしたちが作り出しているのではないか。すべてはわたしたちの意識の問題なのではないのだろうか。そんなことを思ったしだいです。