病気が教えてくれる、病気の治し方

2005年10月第3週

だいぶ秋めいてきましたが、それでもなにかの拍子に気温が上がると、思いもかけずツクツクボウシの羽音を耳にすることがあります。まだ生き残りがいたんですね。それまでいったいどこで息をひそめていたんだろう、と気になる一方、こんな気温にならなかったら、この蝉はせっかく羽化してもなにもできなかったのかもしれない。そんな哀れさ、はかなさを感じさせるつかの間の蝉しぐれでした。

もしかしたらこの時期の気温の変動は、気まぐれに見えて、じつはそんな虫たちに配慮したものだったのかもしれません。遅れてきた虫、まだ交尾相手と遭遇していない爬虫類、それから夏の間に刈り取られ、結実できないまま枯れる運命にあった夏草などなど・・・。自然はきびしいというけれど、こんなに懐の深い、やさしい一面もあったのです。きびしい顔を見せるのは、それを破壊するものに対してだけ。人だけがそう思いこんでいるのかもしれませんね。

でもね、きびしい自然というのも、やさしい自然というのも、あたりまえのことですが存在しません。凶暴であると同時に、慈愛に満ちている、というのがほんとうの姿で、この相反するふたつの性質は自然界のすべてに内包されています。すべての生きものにも共通することで、わたしたちもまた、その法則から自由ではありません。

なぜ、そんな基本的な話をしているかというと、友人から送られてきた「病気が教えてくれる、病気の治し方」(柏書房)という本を紹介したかったからで、これは人によっては非常に理解しにくいかもしれませんが、会員のみなさんならすっと呑みこめる。もしかしたら、うすうすは感じていたけど、ああ、そうだったのか、と納得できるのではないか。そんな本ですから従来の医学、西洋医学はもとより自然療法もふくめたすべての治癒と相反します。

なぜなら、これまで治療と名づけられてきたものすべて、病気の原因を患者の外部。環境であるとか、食事や人間関係、はたまた特定の細菌においてきたからで、患者はあくまでも被害者。たとえ人間関係のストレスが原因になった場合でも、問題は周囲のだれかにあって、けっして患者自身が問われることはなかったのです。ところがここでは、すべての症状は患者みずからが作り出したものだということが明かされる。わたしたちが意識から抹殺し、無意識の闇に葬り去ったものが身体にあらわれて病気になるというのですから、身におぼえのない罪状を突きつけられたような気がするかもしれません。

人間はつねに二律背反の中を生きています。夜と昼、男と女、光と闇、善と悪といった具合に分類され、どうやってもその一方しか体験できません。行ったり来たりするだけです。夜と昼ならだれでも交互に体験していることですが、善悪となると話がちがいます。だれもがいい子でありたい。悪とわたしたちが判断するもの、吝嗇と強欲、怯懦と卑劣さ、性欲や破壊衝動などはだれもが持っているにもかかわらず、社会生活を送るうちに秘密の部屋に追いやられ、やがて忘れ去られて表向きの人格だけになってしまう。

しかし、忘れられても消滅するわけではありません。わたしたちが太陽を浴びているとき、地球の裏側が夜であるように、そういう志向は無意識の闇で生き続け、ときに姿をあらわします。それが病気というもので、心に出現できないものは、体に出現するしかないのです。

病気の目的はただひとつ。わたしたちを健康にすることで、もともと健康だった人が、ある日突然病気になるのではありません。なぜなら、わたしたちは全体の片方だけを生きているからで、不完全。欠けているものを病気に教えられ、ああ、自分にはこういう側面もあったんだな、と認めることで完全に一歩近づく。症状の部位によって、自分の問題のありかがわかるようになっています。

ほんとうのことをいわれても、傷ついたり、恥ずかしがったり、腹を立てたりしないでくださいね。

じつは、このようなスピリチュアルなセラピーを、わたしは数年前に受けたことがあるんです。とはいっても、この本の最後に紹介されている再生セラピーとはちがい、カウンセリングのみ。手足が炎症に悩まされていたころのことでしたが、それはもう過酷なものでした。なぜならそれは、精神的に丸裸になることであり、そのうえ自分とは無縁と思いこんでいたものを、もうひとりの自分として受け入れなければならないのですから・・・。

カウンセリングの途中、交通事故に遭いました。無意識の闇に葬られていた「よからぬもの」たちが浮上しはじめると、こういうことがあるんだそうです。ここでも体の症状のみならず、交通事故や不慮の事故もまた、自己責任となるわけで、変化が起こりはじめると、もっといろんなことが起こりますよ、といわれました。その通り、一年後にまた交通事故。そして数ヶ月前の立っていられないほどの目眩。でも、それらは意識の変化によって起こるというより、意識の変化が停滞したとき、それを促すサインとして出てくるような気がします。

鼻持ちならない自分を容認するのは、簡単そうでなかなかできることではありませんから、皮膚の悩みは大きく改善されたとはいえ、まだいくらか痕跡を残しています。すべてのことに善悪の判断や批判をしない。ありのままに受け入れる、というのもできそうでなかなかできない課題です。でも嫌ったり、排斥しようとすることは、かならずブーメランのように自分にかえってきます。この人はきらいだから、と避けていると、いたるところでおなじような人に出会いますが、この人もまた自分だったのか、と認めてしまうとすっといなくなる。人はすべての現象に自分を投影するようにできてたんですね。

今週の野菜とレシピ

白菜が入りますが、このところ気温が高かったので、まだしっかりと結球していません。この状態の白菜は、内側の葉も太陽の恩恵を受けられるので、青々として結球したものより味も濃厚。鍋ものはまだちょっと早いので、八宝菜など中華風の炒めものに・・・。油揚げといっしょに濃いめの出しでさっと煮て、煮びたしにしても美味。すぐに火が通り、とろけるようにやわらかくなります。

山東菜、別名しろ菜はクセがないので、葉先の青い部分をレタスがわりにすることも・・・。茎の白い部分は味噌汁に入れたり、煮魚のとき、残った煮汁でさっと煮て、つけ合わせ使ったりします。水分が多いので、炒めものには不向きですので念のため。

ニラは先週より少し多め。150グラムになっています。これだけあるとおひたしにしても寂しくありません。3センチ前後に包丁を入れ、塩ひとつまみ入れた熱湯に入れます。湯がくのではなく、たっぷりのお湯に浸けるだけ。お湯を切ったら、熱いうちに醤油と胡麻油少々でナムル風に調味。切り胡麻をふっていただきます。ニラの甘さに感動しますよ。

先週に引き続き、椎茸が入る予定でしたが、高温のせいか、椎茸が生産者の馬田さんらしくなく、傷みが出やすくなっています。そのため、今回は予定を変更して高橋さんの梅干しを使わせていただきました。申しわけありません。

来週は大根が入ります。煮物の用意をしてお待ちくださいね。

*こちらは雨が続いていたため、野菜が濡れていることがあります。そういう野菜は傷みやすいため、出来るだけ湿度調整をしていますが、傷みがありましたら、ご面倒でもお知らせください。翌週、代品を送らせていただきます。