春一番

2006年3月第4週

今週の野菜セット

春の嵐が吹き荒れました。電車も止めてしまうほどの強風で、わが家では薪の山が崩れました。

木枯らしで電車が止まったという話は聞きませんが、春の嵐の威力といったら・・・。おなじ季節の担い手でも、生命を復活させる力というのは、やはりただ者ではない、と痛感したしだいです。生というのは、ときに荒々しいものでもあるんでしょうからね。

山の中も、倒木で歩きにくくなりました。毎年、春一番と台風のシーズンにはノコギリを手に、倒木をかたづけながらの散歩となります。しかし、倒木の下にはもうユキノシタの丸い葉がびっしり。日陰に自生するランも蕾を持ち上げはじめていました。

今週あたり、早いところでは桜が咲きはじめるんでしょうね。こちらでは梅が満開で、コブシも白い蕾を開こうか開くまいか、思案中。遅い春が、それでも着実にやって来ている模様です。

これだけ生命力に満ちた季節に、なぜ人は眠たくなるのか。これ、人類の七不思議のひとつかもしれません。

だってねえ、草木は復活。動物たちも冬眠から目覚め、さあ動き出すぞ、というときになぜ人だけが春眠暁を覚えず、なんていってるんでしょう。春とはそんなもの、と惰性で思いこんでいましたが、よく考えてみれば不可思議な話です。

ただ単にあたたかくなったから?芽吹きどきに体調を崩す人が多くなることなども考え合わせると、どうも人というのは自然のリズムからズレている。なんか変、という気がするんですね。このズレはもともと人という生きものに備わっていたものなのか、あるいは文明が作り出したものなのか。

人類だけに与えられたこのズレが、もしかしたら文明の礎となり、現代のわたしたちがいるんだろうか、などと春特有のぼうっとした頭で考えていました。そのズレも、はじめは小さな楔(くさび)ぐらいだったのが、時代を経るにつれ、だんだん角度が大きくなって、ついに原型をとどめないほどになってしまった、とか・・・。

だとすると、最初の楔はなんだったのか。それすらも、人類がみずから作り出したものだったのか。それとも元々、人類の遺伝子にそういう種が蒔かれていたのだとしたら?そんな風に仮定すると、楔の種が生長し、巨木のようになっていくのをどこかで見ている目があって、なにがあっても憂慮せず、意見もせず、ましてや制裁などもってのほか。すべてを受け入れながら見守っている目が、宇宙のどこかにあるのかもしれない、と思えてきたんです。それを神と呼ぶもよし。宇宙の摂理ととらえるもよし。

とにかく、その視野にすべてが入っている、と思ったとたん、呪詛が解けるように楽になって、人間のここが変だとか、文明のここが変などといっているのが馬鹿馬鹿しくなって、ゆったりと春の眠りに引きこまれていったのでした。

事務局には原発、焼却場問題から絶滅危惧種にいたるまで、さまざまなパンフレットや意見書が送られてきます。送られてきたものには目を通しますが、昔のように気分を高ぶらせることはなくなりました。なぜなら、わたしがいっしょになって怒ったり嘆いたりしたのでは、かえって事態をわるくするような気がしてきたからです。

ある大国が小さな国に赤子の手をねじるような戦争をしかけたとします。当然、反戦運動が起こりますが、運動が戦争を回避させた例はなく、むしろ火に油を注ぐ結果になってしまう。それはなぜかというと、すべての動きには反動という作用が加わるからで、大国の侵入は多くの犠牲を出すかわり、その分、内部崩壊を招くという自然の摂理がはたらきます。

だからといって無関心でいい、というのではありません。残酷な事件が多すぎるといって、ニュースを見ないという人もいますが、この世界で起こっていることを見聞きするのは、文明社会に住むものの義務だと、わたしは思っています。なぜなら、どんなに愚かで残酷で浅ましい事件でも、それはわたしたちの一部だからです。公害も、自然災害ですら、わたしたちが作り出したものにほかならない。

目をそらさない。でも、声高には叫ばない。わたしたちがすべてを受け入れながら、ひたすら見守る「目」のようになれば、放っておいても状況は変わってゆくし、実際、それ以上の手だてがあるとは思えないのです。しかし、それは至難のわざです。すべてを許して受け入れるなんて、なかなかできることではありません。でも、わたし自身が変わらないかぎり、世界も環境も対人関係も、なにひとつ変わりようがないんだということは、常に忘れまいと心しているしだいです。

今後も、どうか遠慮なく冊子類をお送りください。それに目を通し、水のごとく飲みこむ努力をするのも、わたしたちの仕事の一部。それにお応えすることができなくても、冊子を送ってくださる方の心情は痛いほどわかっているつもりです。

今週の野菜とレシピ

先週の春の嵐、それに加えて時ならぬ雪のため、安比高原にいる青山さんの帰宅が遅れています。今週、予定されていたセリは、そんなこんなで来週まわし。代わりに芋茎(ずいき)が入りました。

芋茎というのは八頭の茎で、青山さんのお母さんが薄皮を剥き、秋口に干しておいたもの。水、またはぬるま湯でもどしてから、手頃な大きさに切ってきんぴらや、おつゆの実にします。しゃりしゃりした食感とほのかな甘みが身上。味噌汁に入れるとおいしいですよ。

ただし、この芋茎には量がかぎられていますので、足りないところは干瓢で補わせていただきます。こちらのほうは青山さんのお父さんが夏に収穫。リボン状にして乾燥させてあります。水洗いして、さっと塩でもんでからぬるま湯に浸けると、すぐにやわらかくなります。漂白剤も保存料も使っていませんので、すぐにお使いにならないときは冷蔵庫に保管してくださいね。

ニンジンは、青山さんが秋に収穫したものを岩手に持参して、雪の天然倉庫に保管してあったもの。降ったばかりの雪の中に野菜を投げこむと、雪の中に沈みます。その上からさらに雪を盛り、目印を立てておくと、野菜は何ヶ月も収穫したてのまま保存され、いわゆる氷室となるわけです。この方法で、青山さんはペンションで使う野菜はほとんど、自分の畑のものでまかなっているといいます。米ももちろん、自分で作った有機米。ちょっと遠いかもしれませんが、スキーにお出かけになるときは、今度から彼のペンションを利用してあげてくださいね。

パセリは葉をきざんで冷凍しておくと、いつでも好きなときに使えて便利。茎のほうはスープを取るときに使うので、あらかじめブーケガルニにして冷凍します。

春はアサリが旬を迎えます。このアサリを炊き込みご飯にして、仕上げにパセリをたっぷり加えると美味。アサリご飯を炊くときは水を少なめにして、アサリは最初から入れておきます。塩と醤油少々で調味。炊きあがって荒熱がとれてからパセリを加えてくださいね。このときいっしょにバターも混ぜこむと、さらに風味がよくなります。おこげが最高においしいですよ。

来週はまちがいなく、田ゼリが入りますのでお楽しみに。