春の嵐

2012年4月第1週

今週の野菜セット

左から

先週末は春の嵐が吹き荒れました。

立春過ぎに起こった風が、春一番になりそこねたもんだから、ヤケになって大暴れ。そこら中に八つ当たりをしているみたいで、季節外れの台風さながらでした。

その爪痕も台風並みで、稲苗を育てているハウスのビニールが飛ばされたり、ひどいところでは支柱が曲がってしまったり・・・。それよりなにより、畑からは大量に表土が舞い上がります。畑にとっては大事な土も、あたりにばらまかれては迷惑以外のなにものでもありません。でも、春の嵐というのは、ちょうど農家が田畑に耕耘機を入れるころ、まるで狙いを定めたようにやって来るんですね。

飛ばされたビニールハウスや曲がった支柱は、お金も手間もかかりますが修復は可能です。でも、失われた土壌はどうにもならない。昔の人が、夏草は刈ってもいいが、春の草は残しておけといったのは、強風対策でもあったわけです。その春草のちいさな花々が風に振り回されながら、それでも大地をしっかりと放さないところが逞しい。昨日まで邪魔者扱いしていたのが、チクリと胸に刺さったのでした。

それにしても無防備な農地の多いこと・・・。視界が遮られるほど砂塵の舞う農道を横切りながら、除草剤で剥きだしにされた農地こそ、いちばんの農業問題。早急に手を打たなくてはならない問題ではないか、と思ったのでした。

表土の流失はほんのすこしずつなので、農家一代ではさほどの変化は見られません。でも、孫の世代になったころには、生産力の低下はかなり深刻になっているはず。世界規模で化学肥料の使用量が増えているのに、生産量は逆に低下しているという統計が、わたしたちの未来を暗示しているかのようです。

そんな現状が土壌の保持に向かうどころか、遺伝子操作穀物だの、夢の農薬だのといった悪徳企業に呑まれていってしまっている・・・。それで一時的にでも生産性が上がるのならともかく、借金漬けにされた農家の大半が自殺するという、とんでもないことが起こっています。プランテーションによる農家の農奴化よりもえげつないことが第三世界で起こっていますが、他人事では済まされません。

この国の農地もこのまま疲弊してゆけば、とんでもないことになる・・・。それなのに農業に課せられることといったら、価格的な競争力だの、省力化や合理化といったことばかり。農業をほかの産業とおなじレベルで捉えようとするから、そういうことが問題になるのであって、これは人体をロースだのバラだのと区分けするのとおなじぐらい冒涜的なのではないでしょうか。

土壌は生きものです。農業がほかの工業などとちがうのは、まさにこの一点なのであり、現行の収奪的な農法を推し進めてゆけば死滅しかねないというところにあります。ほんとうは機械など入れてはいけないぐらいデリケートなもので、きわめてローカルな特質を有するもの。農業ぐらいグローバル化にそぐわない産業はないでしょう。

今、農業に求められなくてはならないのは贈与です。肥料の贈与。それは作物を肥やすだけでなく土壌を肥やし、いずれは土壌そのものに変換される肥料が与えられることで、これが贈与されるためにはおびただしい労働力もまた贈与されなくてはならず、その労働力を支えるためには作物を購入する消費者からの贈与という、重層的な贈与によってはじめて可能になるものです。

この贈与という言葉は、感謝と置き換えることもできるでしょう。夏や秋に行われる祭りというのは、田畑の神々、雨を司る神々に捧げる贈与のもっともわかりやすい形ですが、そういう贈与によって舞い上がることができるのは、汗水流してそれを奉納する側。これを大地に対する感謝と置き換えても、感謝することによって解き放たれたり、豊穣を得たりするのは贈与をする側なのですね。

お金にならないことには指一本動かさない、というのが昨今の風潮みたいですが、そういうちいさな「省力化」が積み重なって、やがて大きな齟齬が生じる。わが身をかわいがっているつもりが、とんでもない破局を招きかねないということにそろそろみんな、気がつかなくてはならないときに来ているのではないでしょうか。

今週の野菜とレシピ

気温が温んできたとはいえ、このあたりの夜間は寒く、明け方には野菜が凍るような状況が先週まで続いていました。おかげでほうれん草をはじめ、春野菜の生育がいちじるしく遅れています。そんなわけで、今週は愛媛の野口さんにおんぶに抱っこ。新玉葱春キャベツを送ってもらいました。

キャベツや玉葱はレシピなど不要ですね。

あぶら菜のちいさな花芽はさっと湯がいて胡麻和えか、辛子醤油にからめてお召しあがりください。