焚き火の季節

2015年10月第3週

今週の野菜セット

左から

日暮れが早くなりました。街灯のない山の中では、夕刻になると沈殿物のように足元から暗くなり、やがて潮が満ちるようにあたりを呑みこんでしまいます。真っ黒い鍋の中で、人も動植物もいっしょくたに煮融かされ、闇の中に拡散していくようです。木の根っこにつまづいてはじめて、自分の肉塊がまだ形を保っているんだとわかるような闇。うっかり懐中電灯を忘れると、思いもかけぬ冒険をすることになります。

夏なら、さあこれからもうひと仕事、という時間帯に家の中に追いやられてしまうので、秋が深まるにつれ夕飯が早くなります。夕飯が早く終わってしまうから、寝るまでの時間が長くなる。孫娘のトランプにつきあわされながら、ああ、これが秋の夜長なんだと実感しているしだいです。

朝晩の気温も低くなりました。日中は小春日和でも、日が傾きはじめるととたんに空気が冷たくなります。野良仕事で汗をかいているところに、一陣の風が通り過ぎると、それだけでくしゃみを連発。不精をしていると風邪をひいてしまいそうです。

風邪をひきそうになったら鎌やシャベルを熊手に持ち替え、刈った草やら夏野菜の残滓をかき集めて焚き火をはじめます。たちまちあたりに白い煙が広がって、この期に及んでもしつこくつきまとう蚊を払い、あたり一帯の樹木に潜む虫まで一掃してくれますが、それよりなによりあたりにたちこめる馥郁とした香りがいいんですね。煙を絶やさないように枯れ草を集めてまわるので、風邪をひいている暇などありません。

稲刈りの終わった田圃でも、あちこちから煙が上がっています。白い煙の中にときおり黒煙が混じるのは、陶芸家が今月末からはじまる陶器市に向けて窯を焼いているからでしょう。のどかに立ちのぼる白い煙とは対照的に、整形される過程で人の業のかけらを背負った土が焼かれるせいでしょうか。真っ黒に立ち上がった煙は、薪を燃やしているにもかかわらず、蒸気機関車が石炭を燃やしているのとおなじような臭いを発します。もっとも石炭だって、もとはといえば樹木だったわけですが・・・。

おなじように二酸化炭素を排出し、おなじように環境に負荷を与えているにもかかわらず、一方が香ばしく、一方が悪臭と化すのはどうしてなんでしょうね。粘土が陶器となるときに、否応なく人のアクのようなものが染みついてしまうように、地中深く埋もれた樹木たちもまた、何万年も眠りながら石化するうち、地球の業みたいなものを背負ってしまうんでしょうか。だとしたら化石燃料というのは、地球そのものが環境を激変させ、地表の夾雑物を一掃するために用意したものだったのかもしれない。

こんな風に考えはじめたら、ただの焚き火も登り窯の煙突からもくもくと出てくる煙も同罪で、見るからに禍々しい黒煙といえども、無色透明無味無臭にもかかわらず猛毒、なんていう怪しげなエネルギーにくらべたらかわいらしいものなんだろうけど、これもまた人の業やら欲得にまみれなかったら、ここまで有毒にはならなかったんじゃないかと思いました。

もうすぐストーブにも火が入ります。身体にやさしい薪ストーブも、環境にはけっしてやさしいとはいえないわけで・・・。人が快適に暮らすというのはまことに罪深いことだと思いますが、かといって止められるかといえば止められない。こういうのを業っていうんでしょうねえ。